琉球王国は1429年から1879年までの長い間繁栄してきたの歴史があります。これは江戸時代(1603年ー1867年)よりも長いですね。
地政学的にも国外の干渉を受けやすい位置にあるにも関わらず、長い間存続することができました。
中国(明、清王朝)に対しては属国として、また日本(薩摩藩)に対しても属するという特殊な外交が長年続きました。この難しい外交を長年にわたって成立させることができたのが、琉球王国の思想に外敵と対峙せず、どの国に対しても礼節を重んじて歓迎するという考え方がありました。
その結果、琉球王国時代の建物には中国の様式と日本の様式、または双方が融合したりと、本州では見ることができない独特で美しい文化が形成されてゆきました。その琉球王国の政治、経済、文化の中心であるこの首里城は、外すことができない観光スポットと言えます。
残念ながら2019年の火災で正殿が焼失してしまいましたが、現在は再建に向けて大きく動いています。悲しいことがあった首里城ですが、今回訪れてみて正殿以外にも多くの魅力的なスポットがあることがわかりました。
琉球の、独特で美しい文化を感じることができるので紹介します。
- 首里城の基本情報
- アクセス
- 駐車場について
- 観光スポット
- 火災後の正殿の様子と復興
首里城とは?

先ほども述べた通り、琉球王国の政治、外交、文化の中心地として、15世紀から19世紀まで威容を誇ていたのがこの首里城です。
琉球王国は、中国や日本との長い交流の歴史があり、特に両国の築城文化が融合した独特の建築様式や石組み技術には高い文化的・歴史的な価値があります。
文化の融合と、どの国に対しても礼節を重んじる平和国家琉球のシンボルそのものであると言えるでしょう。
小高い丘の上に立地していて、曲線を描く城壁で取り囲まれていて、その中に多くの施設が建てられていました。首里城は内郭(内側城郭)と外郭(外側城郭)に大きく分けられ、内郭は15世紀初期に、外郭は16世紀中期に完成しています。
正殿をはじめとする城内の各施設は、東西の軸線に沿って配置されいて西を正面としている。西を正面とする点は首里城の持つ特徴の一つです。
首里城跡は2000年12月に、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として日本で11番目の世界遺産として登録されました。
首里城の歴史
琉球王国成立前の14世紀〜15世紀に「三山時代」といわれる3つの勢力が争っていた。今帰仁城を拠点としていた北山。浦添城を拠点としていた中山。そして島尻大里城を拠点としていた南山です。
その後、尚巴志が1429年に三山を統一して琉球王国が成立した。
首里城は三山が統一される前から尚氏の居城で、琉球王国誕生よりも古い歴史がある。
1609年の薩摩藩が琉球を侵攻。尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。
その後、琉球王国は薩摩藩の属国になる。中国大陸との交流も続けれら、薩摩藩と清(中国)への両属という体制をとりながらも、琉球王国は国としての体裁を保ち続けて独自の文化を維持した。
1879年 琉球処分によって首里城から国王が追放されて沖縄県となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われた。
1945年に沖縄戦で首里城は全焼、破壊された。戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなった。
沖縄県が本土へ復帰した後、琉球大学が現在のキャンパスへ移転。その後復元事業が推進され現在に及んでいる。復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしている。
2000年12月には、首里城跡が世界遺産に登録された。
2019年に正殿と北殿、南殿を焼失。
首里城公園の観光案内
住所 | 沖縄県那覇市首里金城町1-2 |
問い合わせ先 | 098-886-2020(9:00~17:00) |
営業時間 | 無料区域: 8:30 – 18:00 有料区域: 9:00 – 17:30 (入場券販売締め切り17:00) |
入場料 | 大人400円 |
駐車場 | 普通車:最小50台、最大116台 バス :最小20台、最大46台 ※変動あり |
所要時間 | 1時間30分くらい(見学ペースによる) |
備考 | 階段が多いのでスニーカー推奨 ハイヒールなどの厚底系は厳しい |
公式サイト | https://oki-park.jp/shurijo/ |
※新型コロナで営業時間変更の可能性あり。
最新の営業日時は公式サイト参照して下さい。
アクセス【MAP】
ゆいれーる
首里駅にて下車。 徒歩約15分で守礼門に到着。
路線バス
・ゆいれーるの首里駅から
市内線1・14番と市外線346番
「首里駅前バス停」→「首里城公園入口」バス停下車。徒歩約5分で守礼門到着。
※炎天下の日は歩くのがキビしいので路線バスをお勧めします。
・那覇バスターミナル、県庁北口(国際通り・久茂地向け)から
346番 那覇西原(鳥堀経由)線 「首里城公園入口」バス停下車
沖縄の路線バス検索が便利です↓
https://www.busnavi-okinawa.com/top
車 タクシー
那覇空港から
約10km 約40分~60分
駐車場
県営首里城公園駐車場
台数
普通車:最小50台、最大116台
バス:最小20台、最大46台
※団体観光シーズンなどで台数の変動があります。
料金
小型車:320円、大型車:970円
時間制限
3時間まで
MAP
コインパーキング
周辺に多数あります。
Wifi
「NAHA CITY FREE Wi-Fi」が使える。
https://www.naha-navi.or.jp/sitepage/wi-fi/
首里城観光おすすめ8選
首里城は広く多くの建物があり、どこを観光していいのか迷ってしまいますよね。
スケジュールが限られる中、計画するのは大変。
今回はおすすめできるポイント8選を紹介します。旅行計画の参考にしてもらえればと思います。
観光する前に(注意点)

- 階段が多いのでスニーカー推奨 ハイヒールや厚底系の履き物は危険かもしれません。
- 場内は自販機がないので、飲料を持参しましょう。
- 首里社館コインロッカーがあるので大きな荷物はここで預けましょう。
- ベビーカーレンタル、車椅子があります。
※場内はバリアフリー化されています(エレベーター有り)。
ヘルプが必要な場合、係員にお尋ねください。
守礼門

この門は中国風の牌楼(ぱいろう)という形式で建てられています。
門には掲げれられている扁額(へんがく)には「守礼之邦(しゅれいのくに)」と書かれていることが名前の由来です。
守礼とは「礼節を守る」という意味で「琉球は礼節を重んじる国」であることを表しています。
地政学的に外国からの影響を受けやすい位置にある琉球ですが、周辺国に対して礼節を重んじながら上手に付き合右ことで長い間王国が存続できたと考えても良いでしょう。
1527〜1555年ごろに第二尚氏4代目 尚清王(しょうせいおう)によって立てられました。
沖縄戦で門は焼失しましたが、1958年に再建されました。
2000年の記録紙幣の2000円札の絵柄になっています。
本州では見られなくなりましたが、沖縄ではいまだに流通しているようです。
県内のATMで入手できるようなのでぜひチャレンジしてみて下さい(笑)
写真撮影は朝がお勧めです。人が少ないのと太陽が守礼門と重なるので映えた写真が取れるかも?
園比屋武御嶽石門 【そのひゃんうたきいしもん】 【世界遺産】

石門が本体のように見えますが、門とその奥の森で「園比屋武御嶽石門」と呼ばれています。
森は神社の本殿に相当し、石門は神社の拝殿に相当するとのこと。
石門は竹富島の西塘の作りと伝えられていて、石材は主に琉球石灰岩を用意ています。
屋根の飾りなどに日本と中国の洋式を合わせて用いている沖縄独特の造りとなっています。
国王が外出するときに安全祈願した礼拝所で、門の形をしていますが人が通るわけではなく、神への「礼拝の門」ともいうべき場所となっています。
1519年(尚真王(しょうしんおう)代)に建てられたたとのこと。
1933年に国宝に指定されましたが沖縄戦で一部破壊されています。
1957年に復元され、その後解体修理して1986年に現在の形に完成しました。
2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産へ登録されました。
歓会門

首里城の城郭内に入る第一の正門です。
中国皇帝の使者「冊封使」などを歓迎するという意味でこの名前がつきました。
「あまへ御門」ともいいます。「あまへ」とは沖縄の古い言葉で「歓んで迎える」という意味で「歓会」はその漢訳
門は石のアーチ状の城門の上に木造の櫓(やぐら)が載せられている。このスタイルは久慶門と継世門と同じスタイルです。
創建は1477〜1500年頃(尚真王代)
沖縄戦で焼失し、その後1974年に復元されました。
守礼門は朱色に塗られているが、こちらはそのままですね。
復元から年月が経っているのでとても年季を感じられます。


門の西側の一対のシーサーは魔除けの意味を持っているて、首里城そのものを守護しているように見えますね。
漏刻門

漏刻とは中国語で水時計という意味です。
門の上に櫓(やぐら)の中に時計を測る水槽が設置されていました。
この門をぬけた先の広場にある、日時計「日影台」との二つで時刻をはかって太鼓をたたいて時を知らせていたとのこと。その太鼓の音を聞いた「西のアザナ」の役人も太鼓をたたいて城の内外の時刻を知らせていました。
創建は15世紀ごろですが、老朽化で昭和初期に撤去されました。1992年に復元され現在に至ります。
この漏刻の制度は、1456年の朝鮮の記録に「我が国のものと何ら変わらない」と記されています。
そのことから、この文化は大陸側から伝えられたことが伺えます。
日影台【にちえいだい】

漏刻門の正面に置かれているのが「日影台」という日時計です。漏刻門の水時計の補助的な道具として使われていました。
日影台を示す時は、日本標準時間に対して約30分遅れているようです。
1739年に従来の水時計は不完全であったので、初めて日影器を制作して設置したとされる。
1879年の廃藩置県までこの時間制度が続いた。
沖縄戦で破壊されたが、2000年に復元された(日影台の時刻版を支える方式は今もわかっていない)

日影台がある展望広場からの風景です。那覇東側の海まで見渡すことができます。
広福門

歓会門から4つ目の門です。
門の外壁上部にある扁額には「廣福」とあり、「福を行き渡らせる」ことを意味します。
「建物付帯型門(たてものふたいがたもん)」というもので建物そのものに門の機能を持たせていて、首里城の城門の特徴的な形式の一つです。
門の西側に「寺社座(じしゃざ)」という神社仏閣にかかわる役所がありました。
門の東側に「大与座(おおくみざ)」があり、戸籍を扱ったり財産争いを調停する役所です。
明治末期、小学校建設のために取り壊された。そのため内部構造はいまだ不明とのこと。
貴重な写真や絵図、発掘調査などの分析を元に、1992年に木造による外観の復元が完成しました。
正殿付近
ここから有料エリアです。チケット売り場は捧神門の正面左手にあります。
ここでは、現在(2021年)の正殿の様子について紹介します。
復興計画の様子や火災当時の状況を確認できます。
現在の正殿付近【2021年】

2019年10月31日に発生した火災によって正殿と北殿、南殿が焼失しました。
現在正殿の再建に向けて動きが進んでします。

すでに瓦礫が撤去されていて、周辺には工事のための仮設道路が造られていました。
2022年から復元工事が着工。2026年の完成を目指している。

北殿も跡形がなくなっています。撤去されています。



さみしい景観にはなっていますが、正殿の基礎の部分を見ることができます。
屋根に使われてい装飾の一部が展示されています。
正殿付近にある復興展示室で、当時の火災と鎮火活動の映像を見ることができます。
同じ年に、世界遺産であるパリのノートルダム大聖堂でも火災があり、世界中が悲しみにくれました。これらの出来事から文化財を火災から守る難しさを感じました。
同じ悲劇が起きないように文化財の保護がより一層強化されることを祈っています。
御庭

元旦の儀式などの重要な祭事や、中国からの使者を迎える儀式などの外交儀礼が行われていました。庭に敷かれたタイルは、磚(せん)という敷瓦です。この色違いの列は儀式のときに諸官が位の順に並ぶ目印になっています。
中央の道は「浮道(うきみち)」といい、国王や冊封使などの限られた人のみ通ることができました。
琉球王国時代は浮道が15cmくらい浮いていたので、そのように呼ばれていた。(現在は5cmくらい浮いています。)
正殿遺構【世界遺産】

ここでは、世界遺産である首里城正殿基壇(きだん)の遺構(いこう)を見ることができます。首里城跡を象徴する非常に重要な文化財となっています。
(基壇:建物を支える土台のこと)
これらの基壇遺構は、さまざまな情報と合わせて首里城が少なくとも7回にわたって正殿建物が建て替えられたことを伝えている
現在、公開している遺構は一部ですが、15世紀からこの地に建設されてきた首里城の痕跡を実際に見ることができます。
東のアザナ

「西(いり)のアザナ」に対して、城郭の東端に築かれた物見台です。
標高約140mの位置にあり、城外の町や城内の正殿裏・御内原(おうちばら)一帯を展望することができる場所で、天候によっては久髙島を見ることもできるとのこと。
「漏刻門(ろうこくもん)」や「西のアザナ」とともに時刻を城内に知らせる役割を担った場所ありました。
ここでは、首里城公園はもちろん首里城下町や遠く東シナ海まで見渡すことができます。天気が良い日には、西側に神の島と呼ばれる久高島を望むことができます。


久高島ですが、訪れた時に肉眼では確認できませんでした。
撮った写真を引き伸ばしてみると、それっぽいのが写っていました。(赤丸マーク)

見晴らしがとても良いので、ここに城を築いた理由がわかるかと思います。
戦国時代に主流だった城山と同じように、防衛上の観点と外敵に対しての監視には適していると感じました。
久慶門

かつて通用門として主に女性が使用したといわれています。
国王が寺院を参詣したり、浦添から以北の地方へ外出する際にも使用されました。
門の造りは、歓会門(かんかいもん)と同じく、中央が石造アーチ門で、その上に木造の櫓がのっています。
門の左手に「寒水川樋川(すんがーひーじゃー)」と呼ばれる湧水があり、またここから左手には「龍樋(りゅうひ)」があります。
そのことからこの辺りは城内に降った雨が地下に浸透して再び湧水とし出てくるとされる。
創建は、尚真(しょう・しん)王時代(1477~1526年)といわれている。
沖縄戦による焼失後、現在の門は1983年に復元されました。
現在は首里城有料区画の出口になっています。
所要時間
約1時間30分以上。
時間が限られている方は、無料エリアのみの見学でも良いかと思います。
周辺情報
龍潭

「龍潭(りゅうたん)」は1427年に造られた人工の池です。
かつてこの付近に建てられていた沖縄最古の碑文「安国山樹華木記(あんこくざんじゅかぼくき)」によれば、国相懐機が中国におもむいて造園技術を学んで造ったとされています。
中国皇帝の使者・冊封使を歓待する船遊びの宴も行われた。
そして、庶民がくつろいでいた名勝でもありました。
かつては、魚が多くいたことから魚小堀(いゆぐむい)とも呼ばれたとのことです。

ちなみに「バリケン」(アヒルの仲間)達が湖畔でくつろいでいました。
玉陵【世界遺産】

玉陵は2000年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産へ登録されました。
1501年に尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために建てられました。
その後第二尚氏王統の陵墓となった。最後の埋葬は1931年の尚典の妃です。
沖縄戦では大損害を被ったが、戦後地元有志によって復興事業が開始されました。
あくまで墓なので見学できるところは限られています。
玉陵奉円館では、1920年の第二尚氏最後の国王尚氏長男尚典の葬儀の貴重な様子を映像で見ることができます。また模型を使った説明展示があるので、先にこちらを見学してから陵墓へ行くことをお勧めします。
アクセス | 守礼門から徒歩5分ほど |
入場時間 | 9:00-18:00 |
所要時間 | 30分ほど |
入場料 | 大人300円 |
駐車場 | 首里城公園と共通 |
公式サイト | https://www.city.naha.okinawa.jp/kankou/bunkazai/tamaudun.html |
※新型コロナの影響で時間変更や休館あり。最新情報は公式サイトを確認して下さい。
金城町石畳道

約500年前に整備された琉球石灰岩を敷き詰めた石畳道です。
沖縄戦で多くの石畳道が破壊されましたが、約300mが戦火を逃れて残ったのがここの石畳道です。なのでここの場所では当時の面影を留めており、また道の両脇には沖縄の古民家が並んでいるので、沖縄の懐かしい景色を見ることができます。
国王もこの道を使っていたとのこと。
注意点
- 石畳なので、でこぼこした道になっています。スニーカーなどの歩きやすい靴で訪れることをお勧めします。
- 石畳道は雨になると滑りやすいので注意が必要です。
- 階段が急勾配なので夏の暑い時期は汗をかくので熱中症に注意しましょう。夏以外でも時期によっては対策が必要です。ぜひ飲み物を持参しましょう。私は5月に訪れましたが、本州の真夏日のような暑さだったので観光中にクラクラになりました。
まとめ
- 当時の中国と日本の文化を取り込み、融合された独特の建造物を見ることができる。
- 2026年の正殿復興に向けて動き出している。
- 首里城公園以外に玉陵や金城町石畳道などの重要な文化遺産を見ることができる。
- アクセスはゆいれーる、バスなど充実している。
- 駐車場は県営の大型駐車場あり。周辺にコインパーキングあり。
これら首里城の建物は沖縄戦で破壊されてしまい、ほとんどの文化財は戦後に復興されたものです。戦時中には、旧日本陸軍第32軍の総司令部が置かれており、アメリカ軍の攻略目標の一つとなっていました。戦後、ここまで復旧したことに対して、関係者のたゆまない努力と思いを伺うことができる。今後も再び悲劇を見ることがないように平和が続くことを願いたいと思いました。
沖縄の歴史にもっと興味を持たれた方は、沖縄県の博物館でより詳しく知ることができます。
「おもろまち」にあるので、帰りにぜひ立ち寄ってみてください。


にほんブログ村

にほんブログ村
コメント